LIFE ACADEMIC

日常生活の中で感じた疑問を掘り下げて書いてます

死後の世界は存在するのか?

         「あらゆる生あるものの目指すところは死である」

 

    これは、精神医学者ジークムント・フロイトが残した言葉だ。

 

    人は死んだ後どうなるのだろうか?何も早死にしたいわけではない。
    これは私が長年疑問を抱いているテーマであり、皆さんも一度は死後の世界について思いを馳せたことはあるのではないだろうか?

 

    その答えを探し求め、私は心霊ドキュメンタリー番組や臨死体験の話を見聞きするのが好きなのだが、実際に私自身霊媒師でも幽霊でもないので、結局の所、その存在の有無について定かではない。

 

    そこで、万物の書である「聖書」を手に取り調べてみると、ヨハネ(イエスの使徒の一人)が死後の世界を巡った時の見聞録があり、そこにはこのように記されている。

「また私(ヨハネ)は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。 ‥‥神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。』‥‥」
(ヨハネの黙示録21:1 ~ 4)

「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。 それから、死とハデスとは、火の池(Lake of fire )に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」
(ヨハネの黙示録20 : 11 ~ 15)

    この記述は、前者が天国で後者が地獄について述べたものだとされているが、確かに人間の社会的倫理モラル、そして情念といった規範に照らし合わせ考えるなら、ここに書かれている内容は的を射ているかもしれない。

 

    だが、捻くれてる性格が災いしているせいなのだろうか、私は神という全知全能の存在がこの世界にいるのなら、なぜ世の中はこうも不平等に満ち溢れているんだろう、とか、倫理的モラルが時代によって移り変わる社会の中で、天国と地獄にいく者の基準を不変の真理として聖書に委ねてもよいのだろうか、と、どうしても神の存在を前提とした宗教的死後の世界観に疑問を持ってしまう。これは何も聖書を否定したいわけでは全くない。

 

    そんなわけで、もう少し論理的アプローチがないものかと煩悶としていたわけだが、『モーガン・フリーマン時空を超えて』というテレビ番組を見ていた時、米アリゾナ大学教授の麻酔科医スチュワート・ハメロフさんが、死後の世界についてこのような面白い見解を示していた(注1)。

Stuart Hameroff

アメリカ合衆国の麻酔科医、医学博士、アリゾナ大学教授。理論物理学者ロジャー・ペンローズと共同で意識に関する研究をしている

画像出典:Eテレ

    「死後の世界はあるのか」この説の根幹をなすものは、脳細胞の中にあるマイクロチューブルという構造で、細胞の構造を決定づけている。
    マイクロチューブルは細胞を一種のコンピューターとして機能させる役割を果たし、分子レベルで情報を処理していると考えられているが、従来のコンピューターとは違う、量子コンピューターとして機能させる役割を担っていると考えられている。
    一般に脳は、ニューロンの集合体だと見なされており、一つのニューロンが活動すると、シナプス(ニューロン間の接合部)を経て、次々と他のニューロンに信号が送られ脳全体に信号が送られる。(例えると、ドミノを一つ倒したら、前にあるドミノが次々と倒れて行くような感じ)。
    しかし、量子コンピューターでは、量子もつれと呼ばれる未知のプロセスを経て、情報が伝達される。それは、ある場所でニューロンの活動が起きたとすると、空間的に全く離れた別の場所で、それに対応した反応が起きるという現象だ(こちらは、ドミノを倒したら、倒したドミノと全く別の場所にあるドミノが倒れるイメージ)。
    量子論では、何もない空間でも情報が伝わり、量子情報は宇宙を含め全ての空間に存在している為、あらゆる場所に情報が伝わり反応する。
    この説が正しいとすると、マイクロチューブル内にある情報は外にある空間と繋がり、脳内の意識が量子もつれによって、広く宇宙全体に存在する可能性がある。
    この理論を応用すると、臨死体験の謎も解けてくる。心臓が止まり、血液が流れなくなると、脳は量子コンピューターとして機能しなくなるが、マイクロチューブル内にある量子の情報(ここでは魂)は破壊されない為、宇宙全体に散らばっていく。そして、患者が息を吹き返すと、散らばった量子情報は再び脳内に戻るので、亡くなった家族にあった・体を抜け出したという体験談があるのだろう。
    現に、臓器移植で患者の大動脈が止められた時、脳に血液が流れていない患者のモニターをチェックした所、脳のニューロンが爆発的に活動している現象を確認している。

 

    この考察に基づいて考えると、意識は脳の中で形成されるだけでなく、量子が存在しうる限りは、宇宙、もしくそれ以上の世界にまで拡散しうるということになる。そうすると、脳は死後の世界を量子ゆらぎに基づくプロセスで認識できる可能性があり、現代科学の常識を覆すことになる(だろう)。

 

    実際にこの理論、全く信憑性がないわけでもなさそうだ。

 

    脳神経外科医のエベン・アレグザンダー医師は、自身が細菌性髄膜炎(細菌が脳や脊髄を包む髄膜に感染し脳を攻撃する病気)に襲われる際に臨死体験を経験したが、その後、自身でその時の脳内活動を調べると、脳の大部分の活動が停止していたにも関わらず、臨死体験をしていたことが明らかとなった。
    この臨死体験を脳内における錯覚ではないのか、と指摘する意見もあるそうだが、これはエベン医師の専門分野における見解からしても、脳内の錯覚ではなく臨死体験をしたとしか説明がつかないそうである(注2)。

 

    また、2018年2月には、脳死患者9名の家族の同意のもとに、生命維持装置を外した後の脳内活動の記録記録が医学誌に掲載されている。それによると、血液の循環が停止すると、脳内の酸素濃度が下がって脳波も平坦となっていき、最終的にニューロンで「ターミナル(終末)拡延性脱分極」として知られる現象が確認されている。
    これは、ニューロンへの酸素配給が断たれ、細胞内のエネルギー源(ATP)がなくなり、細胞の内外のイオンのバランスが崩れて元に戻せなくなった破綻状態である。     終末拡延性脱分極がおきた部分は回復不能で、拡延性脱分極の専門家であるドイツ、シャリテ大学大学院神経科教授のイェンス・ドレイアー博士は、上述の論文の中で「終末拡延性脱分極は、死につながる最終的な変化の開始である可能性がある」と述べている(松田, 2018)

 

    こうした実証例を踏まえ、再度ハメロフ氏の仮説を考えると、確かに死後の世界は存在するという彼の説は説得力がありそうだ。

 

    こうした科学的エビデンスの提示に対し、結局の所は実際に死んでみなければ死後の世界が存在するかどうかなんてわからないからそんなことを考えても意味がない、という意見もおそらく中にはあるだろう。

 

    だが、人は生まれながらにして「生きる」ようプログラムされた生物であり、死ぬことを目的として創造された生物ではない。人は、今ある「生」をより輝かせる為に「死」を意識して考えるのであり、その考えるという行為自体に非常に意味があるからこそ、人は答えのない死後の世界について思いを馳せ、大いに悩み考えるのだと私は思う。

 

    いずれにしても、死後の世界というテーマは、我々人類にとって不変のテーマであり、もしかしたら、死んだ後の世界は人が眠っている時のように何も存在しない世界かもしれない。だが、それでも我々は死について考えることをやめないだろう。

    なぜなら、死を考えるのは死ぬ為でなく、まさに、生きる為だから

by アンドレ・マルロー

※おまけ

 

今回死後の世界について調べていたら、その過程で、死に関する様々な名言を見つけました。 せっかくなので、個人的に面白いと思った名言を4つ紹介したいと思います。

・なぜ死を恐れるのですか。 まだ死を経験した人はいないではありませんか。

by ロシアの諺

・最初の呼吸が死の始めである。

by トーマス・フラー(英国の神学者)

・人は、いつか必ず死ぬということを思い知らなければ、 生きているということを実感することもできない。

by マルティン・ハイデガー(ドイツの哲学者)

・天国はすごくいいところらしい。だって、行った人が誰一人帰ってこないのだから。

by 作者不明

 

注1-     こちらの番組は数年前にディスカバリーチャンネルで放送された番組で、日本でもEテレで放送された(2018年3月再放送終了)
注2-    この臨死体験の詳細については、エベン医師が著書『プルーフ・オブ・ヘヴン』にその体験を綴っているが、そこでは、臨死体験をした時に見た数々の奇跡的な体験が描かれている。

 

パラレルワールドは存在するのか?

舞台は2010年夏の秋葉原

中二病から抜け出せない大学生である岡部倫太郎は、「未来ガジェット研究所」を立ち上げ、用途不明の発明品を日々生み出していた。
だが、ある日、偶然にも過去へとメールが送れる「タイムマシン」を作り出す。

世紀の発明とその興奮を抑えきれずに、興味本位で過去への干渉を繰り返す。
その結果、世界を巻き込む大きな悲劇が、岡部たちに訪れることになるのだが…
悲劇を回避するために、岡部の孤独な戦いが始まる。

果たして彼は、運命を乗り越えることができるのか!?

 

 冒頭で紹介した文章は、「シュタインズゲート」というTVアニメの紹介を抜粋してきたものだが、実は私、結構なサブカルチャー好きで、アニメやマンガといった類のものを見たり集めたりするのが趣味であり、先ほど紹介したアニメは、今年の4月に放送された「シュタインズゲート 0」というアニメの前作にあたるストーリー紹介だ。そしてこのアニメ、実はタイムリープを話の軸に物語が展開されていくのだが、その世界観は驚くほど見事に表現されている。

(『TVアニメ:STEINS;GATE』今年の4月から続編『STEINS;GATE 0』が放送された)
(画像出典:TVアニメ『STEINS;GATE』公式サイト

 タイムリープとは、簡単に言えば時間跳躍のことで、人が瞬間的に過去や未来を行き来することを意味するが、イメージとしては『時をかける少女』の主人公(紺野真琴)が過去へ戻る時に使った能力を思い出してもらえれば分かりやすいだろう(トキカケ見てない人はぜひ見てほしい)。

 過去に戻れる!...それはなんとも甘美で心地の良い言葉だが、勿論、シュタインズゲートで頻繁にやり取りされるタイムリープはあくまで設定上の話であり、常識的に考えてみても、私たちの住んでる世界にそんな技術があるわけがない(だろう)(注1)。

 だが、その「常識的に考えてみて」という常識を疑い、「過去に戻れる!」という夢をあきらめずに追い求めると、思わぬ発見が見えてくる。

 タイムリープから少し話が逸れてしまうが、皆さん「パラレルワールド」という言葉を聞いたことはあるだろうか。パラレルワールドとは、その名前の通り並行世界のことで、簡単にいうなら「IFの世界だ」。

 例えば、あなたは明日開催予定のとあるイベントを見つけて興味を持って申し込みをしたとしよう。しかし、当日になってやっぱり行くのが面倒になり、そのイベントに参加するのを止めたとする。この時、あなたはイベントに参加するという選択肢もあったわけで、もし参加していたら、将来のパートナーとの出会いや、今後の人生を大きく変える出来事があったかもしれないが、この「もしも」という私たちの世界と同時進行する条件分岐した世界が「パラレルワールド」という世界になる。

 こんな話を急にされても、パラレルワールドタイムリープ同様に、何とも受け入れがたい話に聞こえてしまうかもしれないが、これについては、実際にパラレルワールドから私たちの世界にタイムトラベルしてきたとされる人物(ジョンタイター)の面白い逸話がある(多分知ってる人が結構いるかも)。

 ジョンタイターとは、2000年にインターネット上に突如現れ、2036年からやってきたタイムトラベラーを自称するなんとも中二病全開の男性の名前なのだが、実はこの男、ネット上で言い残したさまざまな予言が妙に的を射ていて大変話題になった人物である(らしい)(注2)。

 例えば、イラク戦争狂牛病BSE)、ペルー地震、…これらの事象は2000年当時にタイターが今後未来で起こるであろう出来事を言い残したものだが、いずれの予言もその後の時系列を追ってみると、見事にその予言を的中させている。

 また、タイターはネット上に自分が乗ってきたというタイムマシンの設計図を残していったが、その設計図は科学者を納得させる程の出来栄えで、さらに、タイターはこの時代に立ち寄った理由として、IBM5100というコンピュータの入手を目的としていたそうなのだが、その後、IBM5100にはIBM社のごく一部の者しか知り得ない機密情報が内臓されていたことが、元IBM社エンジニアのボブ・ダブック氏の証言で明らかとなっている。

      (タイターが残していったタイムマシンの設計図)
            (画像出典:tocana.jp)

 こうした事実と証言があると、確かにパラレルワールドの存在への信憑性は高まるが、実際にこれだけジョン・タイターに纏わる情報があるにも関わらず、彼の存在を示す有力な手がかりは残っていない(注3)。さらにタイターの予言によると、2005年にアメリカで内戦、2008年北京オリンピックの中止、2015年アメリカとロシアの間で第3次世界大戦が勃発するなど予言していたが、2018年現在、そのような出来事が全く起きていないことがわかるだろう(注3)。

(ちなみにこちらの画像はタイターが予言した2020年の日本地図らしい)
(画像出典:www.daytradenet.com)

 また、タイターが乗ってきたというタイムマシンを現代科学の知見に照らし合わせ作るとなると、エキゾチック物質(負のエネルギー)の生成・衝突器で作り上げた10兆度のエネルギーをさらにプランク温度まで押し上げ一点に集中させる・差分岐器で時間差を作るなど、我々の想像を遥かに超えた途方もない難題をいくつもクリアしなければならない(注4)。

 こうしたことを踏まえ、再度タイターの証言を考えると、彼がタイムマシンを使い2036年からやってきたという話は何とも信憑性に欠ける話だと感じてしまうが、どうやらパラレルワールドの存在にだけに話を絞って考えると、事の様子はだいぶまた変わってくる。

 この謎を解明する手がかりとして、エルヴィン・シュレーディンガーは「シュレディンガーのネコ」という思考実験を提唱したが、この実験は以下のようなものである。

Erwin Schrödinger

オーストリア出身の理論物理学者(1887 - 1961)
・1926年に量子力学の基本方程式にあたる「波動力学」を発表
・1933年、量子力学における業績が認められ、イギリスの理論物理学ポール・ディラックと共にノーベル物理学賞を受賞

 まず、外から中が見えない箱の中に1匹のネコを入れ、その中に、放射性物質と放射性検出器、そして放射線検出器と連動した毒ガス発生装置も入れておく。放射線検出器は放射線を検出すると、毒ガスが発生して箱の中のネコが死んでしまう仕組みになっているが、放射性物質がいつ放射線を出すかはわかっておらず、唯一わかるのは、この放射性物質は10分間の間に50%の確率で放射線を出すことだけである。その状態で、その箱の中にいるネコは生きているか死んでいるか予想するわけだが、この実験が「シュレディンガーのネコ」と呼ばれるものである。

 この思考実験、常識的に考えれば、ネコの生死は箱の中を覗くまで、生きているか死んでいるか分からないはずだが、量子論を使ってこの思考実験を検証すると、実に謎めいた主張が出てくる。それは、ネコの生死は観測者が確認するまで、生きている状態と死んでいる状態が重なり合っている状態、つまり、どちらの状態でもあると考え、箱の中を確認した瞬間に、はじめて猫の生死が確定するという主張なのだ。

 この対象物(今回の場合ネコ)を観測するまで物質の状態は確定していない、もしくは観測前の状態を考えるのは無意味であるとする解釈は、「標準的な解釈」あるいは「コペンハーゲン解釈」と呼ばれており、「観測」が行われた時点で、複数の状態が重なり合っていた(重ね合わせ状態だった)ものが一つに決まることは「(状態の)収縮」と呼ばれている。
 しかし、実際にいつ、観測が行われたとみなすのかは曖昧で、シュレディンガーの猫の思考実験でいえば、放射線が出てから観測者に猫の生死が認識されるまでのどの時点で観測が行われたかはっきりしておらず、収縮が起きる仕組みも不明で明確な説明はされていない。また、標準的な解釈では、収縮が起きる為に外部の観測者による観測が必要となるが、現在、宇宙の「外」は存在しないと考えられている為、量子論の考え方を宇宙全体に当てはめようとすると、外部の観測者が必要となる標準的な解釈は適用できないことになる。

 そこで、収縮という概念を使わずに、量子論の不思議な現象を説明しようとする考え方の一つが「多世界解釈(いわゆるパラレルワールド)」というものだ。これは、標準的な解釈では、箱の中を確認した結果、猫が生きていたら観測結果とは異なる状態(つまり猫が死んでいた状態)は消え失せたと考えるが、多世界解釈では、元の世界が「猫が生きていた世界」と「猫が死んでいた世界」に別れてしまうという考え方だ。先程の例でいえば、猫の生死の可能性は生と死の二つだけだが、可能性が1000個あれば、世界は1000に分岐するということになる(注5)。また、収縮の概念を必要としない多世界解釈は、量子宇宙にもとづく宇宙論や量子情報科学の研究と”相性”がよいため、現在支持を広げている(2018, 福田)。

 こうした科学的アプローチを調べると、確かに「なるほど」と思う一方、私のようなその道の精通者でない者にしてみれば、彼ら専門家が言っている事は想像の遥か上を越えていて、いくらパラレルワールドの実在性について説明されても「わけわからん」というのが本音だろう。

 だが、夢想家の私にとっては、正直タイムパラドクスやパラレルワールドの有無はそこまで重要なファクターではなく、もしかしたらそんな世界が存在するかもしれない、という可能性に想像を膨らませるだけで、何とも楽しく爽快な気分になってしまう。その理由は、ジュール・ヴェルヌの言葉を借りていうのなら、まさに「人間が想像できることは、人間が必ず実現できる」という言葉に夢と期待を寄せているからだろう。

 

 

あとがき:

 今回、テーマである『「シュタインズゲート」と「パラレルワールド」』を掲載するにあたって、ジョン・タイターについていろいろと書きましたが、そもそも彼が本当に実在していたかどうかは不明であり、タイムマシンや未来の予言など真偽の程は定かではないので、私的解釈も含めてここでは書いています。
 ですので、タイターの話に関しては、話半分程度に読んで頂ければと思います。ちなみに、タイターについての元ネタは、主にネットに上がっているいくつかの記事と、実際にネット上でタイターと行われたやり取りについてまとめられた文献を参考にしました(下記参考資料参照)。
 また、今回量子論については、科学雑誌『Newton』を参考にしましたが、他にも量子論の解釈として下記のような解釈も示されていたので、もし興味があればご覧ください(科学雑誌『Newton2018年4月号』 p.50 参考)

 

標準的な解釈ー複数の量子的な状態の重ね合わせが、観測によって一つに収縮する。観測することによって、波が粒子に変化するとも言える。

多世界解釈ー収縮は起こらず、量子的に取りうる可能性の数だけ、世界は無数に枝分かれしていく

かくれた変数の理論量子力学は不完全であり、自然界にはこれを補う「かくれた変数」が存在する

GRW理論コペンハーゲン解釈に収縮のメカニズムを追加した理論

多精神解釈ー可能性の数だけ世界(宇宙)全体か枝分かれする代わりに、観測者の心の中で世界の枝分かれが起きる解釈。

時間対称化された解釈ー未来はすでに決まっており、未来が原因となって(未来が現在に影響を及ぼして)現在の状態が決まるという解釈

 

注1- 「常識的に考えてみても、現実世界にそんな技術があるわけない(だろう)」のだろうに()をつけましたが、もし現在誰かがタイムリープしているのであれば、私たちが気づかないうちに今の記憶は取り消されているので、その意味では、タイムリープの技術は現実世界に存在しない、と決めつけるのはおかしいので、一応だろうに()をつけました。

注2- ジョン・タイターの詳細については知りたい方は、ネットで彼の名前をググれば簡単に引っかかります。 そして以下、タイターに纏わる話については、ネットと文献(下記参考資料参照)をもとに書いています。
また、シュタインズゲートでは、ジョン・タイターを実際に存在する本物の人物として登場させてるので、シュタゲをこれから見る人は要注目です。

注3- タイターの目撃者として、彼は未来に帰る前に実の両親と会ったとされていますが、彼ら夫妻は平穏な生活を送りたいとの理由からタイターとの関係を断ち切っており、これらの経緯については、弁護士を通じて明らかとなっているそうです。
また、これらタイターの外れたは予言に対して、彼は、私たちの世界でこうした出来事が発生しない可能性についても触れており、それは自分の住んでいる世界とこちらの世界とでは世界線にズレ(いわゆるパラレルワールドの条件分岐?)があるからとしているらしい。

注4- タイムマシンの作り方については、参考図書である『タイムマシンのつくりかた(草思社)』を参考に書きました。

注5- ここでいう「世界」とは、全宇宙のことで、観測対象や観測者のみならず、世界に存在する全ての人や物が異なる世界(並行世界、パラレルワールド)に枝分かれする。なお、標準的な解釈では、世界は一つしかないと考えられているそうです。

参考資料

ポール・デイヴィス著,林一訳 (2011) 『タイムマシンのつくりかた』 草思社文庫

福田伊佐央(2018) 「”半死半生”のネコは実在するか?」,『Newton』,3月号

福田伊佐央(2018) 「パラレルワールドは実在するか?」,『Newton』,4月号

ジョン・タイター(2006) 「未来人ジョン・タイターの大予言」 マックス

カチャカチャカチャ…ポチ…カチャ…カチャ…カチャ………。
「ピーンポーン」
私「!?」
スタッフA「時刻は間もなくして、22時となり、閉館時刻となります。ご用のある方は、お早めにお願いします」
私「………(帰宅準備)」

    最近、時間の流れがとても早く感じる。

    私は最近趣味でプログラミングと当ブログの編集にハマっているのだが、プログラミングは、参考書を読んだり、ググったりしてコードを打ち込み、ブログは文献を漁ったりしながら進めている。そして、そんなことをしているうちにあっという間に時間が流れ、気づくと夜中になっている。


ああ、今日も1日が終わってしまった…


    そんな虚無感に襲われながら、日々荏苒と過ごす日が続いているが、いつからこんなにも時間が早く過ぎると思うようになったのだろうか…。
    この不思議な現象が起こる理由としてよく挙げられるのが、「ジャネーの法則」というものだろう。ジャネーの法則とは、年少者の者ほど時間が経つのを遅く感じ、年長者になればなるほど時間の経過を早く感じるという、フランスの哲学者ポール・ジャネさんが発案した心理法則だ。

 

Paul Janet

画像出典:Wikipedia

    例えば、10歳の子供にとって1年の長さは、人生の長さで言う所の1/10に当たるが、30歳の大人の場合、一年の長さは人生の長さの1/30になる。これは、10歳児の人生の1/3の長さに当たり、年換算すると、10歳児の1年は、30歳の大人が過ごしてきた3年分に相当するということになる。つまり、人生の長さは、自身の年齢が一年に対して反比例する形となる為、年を重ねるごとに、一年の長さが相対的にどんどん短くなっていくというわけだ。

    しかしこの現象、単純に心理法則だけで片付けられる問題でもないらしい。これについて、生物学者の福岡伸一さんは生物的見地からこのような見解を述べている。

福岡伸一

そもそも生命って何…?という謎に切り込んだ『生物と無生物の間』(2007年発売)は大ベストセラーとなり、大きな話題を呼んだ

画像出典:NHK出版 

 

今、私が完全に外界から隔離された部屋で生活するとしよう。この部屋には窓がなく、日の出日の入り、昼夜の区別がつかず、また時計もない。(中略)
    私が3歳の時、この実験を行って自分の「時間間隔」で「1年」が経過したとしよう。そして私が30歳の時、もう一度この実験を行って「1年」を過ごしたとする。いずれも自分の体内時計が1年を感じた時点が「1年」ということである。それぞれの実験では、実際の物理的な経過時間を外界で計測しておくとする。
    さて、ここが大事なポイントである。3歳の時に行った実験の「1年」と30歳の時に行った実験の「1年」では、どちらが実際の時間としては長いものになっただろうか。
    以外に思われるかもしれないが、ほぼ間違いなく、30歳の時に感じる「1年」のほうが長いはずなのだ。なぜか。
    それは、私達の「体内時計」の仕組みに起因する。生物の体内時計の正確な分子メカニズムは今だ完全には解明されていない。しかし、細胞分裂のタイミングや分化プログラムなどの時間経過は、すべてタンパク質の分解と合成のサイクルによってコントロールされていることがわかっている。つまりタンパク質の新陳代謝速度が、体内時計の秒針なのである。
    そしてもう一つの厳然たる事実は、私達の新陳代謝速度が加齢とともに確実に遅くなるということである。つまり体内時計は徐々にゆっくりと回ることになる。しかし、私達はずっと同じように生き続けている。そして私達の内発的な感覚はきわめて主観的なものであるために、自己の体内時計の運針が徐々に遅くなっていることに気がつかない。
    つまり、年をとると1年が早く過ぎるのは「分母が大きくなるから」ではない。実際の時間の経過に、自分の生命の回転速度がついていけていない。そういうことなのである。 - 福岡伸一『動的平衡』-

 

    生物学の視点から見ると、どうやら自身の体内時計のスピードは年を取るごとに遅くなり、時間の流れについていけなくなることが原因で、この不思議な現象が生じるらしい。
    だが、門外漢の私に取って、これは要するに一体どういうことなのか、正直な所、あまり釈然としない。そこで、生物学を研究している友人にこの疑問について尋ねると、こんな答えを返してくれた。

 

代謝というのは、体の中で起こっている化学反応のこと。ABCと変化して、またAに戻る化学反応があるとして、その1サイクルを1日と認識していると仮定します。それが、老化してだんだん遅くなってくると、AからAに戻るまでには一日以上かかるような状態となってきます。そうすると、体の代謝としてはABCの1サイクルがやっと終わった段階で、現実では時間は1日以上経過してしまう。体のサイクルと実際の経過時間にずれが出てくるので、“あれ、思ったより時間がたっているぞ?時の流れははやいな…”という感覚になってくるのではないかということです。

 

    こんな事実を知ってしまうと、人間の体って若いうちからどんどん劣化しているんだなあ、と驚いてしまう一方で、平安時代の平均寿命が30歳前後だったという事実も、生命のふるまいからしてみればある意味それは当然なんだなあ、という超高齢化社会を生きる私にとって、この事実に妙な物覚えを感じてしまう。

    「人生100年時代」。世界的ベストセラー『LIFE SHIFT』の著者リンダ・グラットンが提言した言葉であり、国連予測によると、2107年には主な先進国の半数以上が100歳よりも長生きするそうだ。100歳…あと74年も生きなきゃいけないのかあ、とこの言葉を知った時に思ったが、案外その日は私が思う以上に早いのかもしれない。

サルバドール・ダリ:「記憶の固執」(1931年)

参考資料

吉川和輝. 大人はなぜ時間を短く感じる?. 日本経済新聞. 2010/6/1
https://www.nikkei.com/article/DGXBZO08220480X20C10A5000000/


参考図書

福岡伸一(2013) 『動的平衡木楽舎

リンダ・グラットン, アンドリュー・スコット(2016) 『LIFE SHIFT』 東洋経済新報社

「自由意志の存在」について考えてみる

先日、『未来世紀ジパング』という経済番組をオンデマンドで見ていると、コストコの営業販売戦略について放送されていた。

 

コストコと言えば、まるでテーマパークのようなマーケットストアで有名だが、営業担当者いわく、「弊社では、人の行動心理に基づく営業戦略を立てることで、売り上げを大きく伸ばしている」と言っていた。

 

 その例として、例えばコストコで買い物をする際には年会費(4400円)を支払う必要があるのだが、これは、支払った元を取ろうとする行動心理(サンクコスト効果)を利用したもので、他にも高額商品を先に見せることで他の商品を安く感じさせるアンカリング効果、試食販売をしてお客さんに親近感を抱いてもらう返報性の原理など、数々の行動心理に基づく販売方法が紹介されていた。

 こうした販売に対し、実際に消費者からも「せっかく年会費を払ってるんだからコストコで買い物をするようにしている」「コストコの買い物カゴは大きいからついつい商品で埋めたくなってしまう」という声があがっており、コストコの消費者心理に基づく営業は見事に成功しているといっていいだろう。

 

 私はこの番組を「コストコやるなあ…」と思いテレビを眺めていたのだが、それと同時に「ちょっと待て…人ってもしかして、自分で意思決定しているように見えて、実はしてないんじゃないか」と思いぞっとした。というのも、なにしろ行動心理に基づくコストコの販売効果をすんなり認めてしまったら、人はロボットと同じように操作可能な存在で、そこに自由意志など存在しないことを認めることになるからだ。

 

 

 これについて一つ、私の卑近な例を出してもう少し説明してみたいと思う。

 

 

 私は高円寺にあるとあるラーメン屋さんのラーメンが好きであり、月に一度は必ずこのお店のラーメンを食べてしまう。これを先ほど説明した行動心理に紐づけて考えるなら、私はここのラーメンをおいしいと判断したから食べているのではない。そのラーメン屋さんのおいしいラーメンに引き寄せられた結果として私はそのラーメンを食べているのである。

 つまり、お店側からしてみれば、私が数あるお店の中からこのお店を選んだという意思決定プロセスはどうでもよく、おいしいラーメンを作ればお客さんが来るという事実の方が大切であり、私は見事その条件行動に当てはまったロボット人間だったということである。

 

 そんなわけで、私はそれからというものの、家の近くにあるコンビニに行ったり、本を買ったりする度に「ああ…私がここで買い物をするのは、このお店のオーナーがこの立地、またはこの商品にこのぐらいのニーズがあると分析したからで、自身の自由意思に基づいた消費行動ではないのか…」としばらく悲観に暮れていたのだが、なんとかこの屈辱的状況を打破したいと思い、ある時、ラーメン(勿論高円寺!)を食べながらこんな発想をしてみた。

 

 

「そうだ、人の行動が他者によって操作されているのなら、自分の意思決定に基づく行動を生理現象に置き換えて考えてみたらどうだろうか」

 

 

要するに、こういうことである。

 

私たちは何か物事を決める時、自分で意思決定をしているようにみえて実はしていない。それは、私たち一人一人の行動が、周囲の環境に大きく依存しているからだ。

ならば、自分の意思決定の拠り所を、自分にはそれがどうしても必要でならなければならない理由、つまり、人が水がなければ生きられないのと同じように、自身の意思決定も自分の体を構成する一部のパーツとして認めてあげるべきだ

 

これを先程のラーメンの話でもう一度例えるなら、私が高円寺にあるラーメン屋さんでラーメンを月に一度必ず食べるのは、そのお店のラーメンをおいしいと思って食べに行っているのではなく、私はそのお店のラーメンを食べなければ生きていくことができない、と考えるのだ。

 

この論法を取れば、前者の「そのお店のラーメンがおいしいから食べに行く」という主体的意思決定プロセスは存在せず、自分の体がラーメンを欲していたからラーメンを食べにきた、という受動的状態にまで持ち込めることが可能となり、サンクコスト効果、アンカリング効果というような行動心理に基づく方法は通じなくなる。

 なぜなら、この時の意思決定は自分で考えたものではなく、自身の体内に組み込まれている行動原理に従っているからで、こうした人の体内に組み込まれた先天的性質は、いくら相手が統計分析をしたとしても予測可能なものではないからだ。

 

よって、私は自身の決定を私自身の本能に委ねることで、僅かながらの自由意志を見出すことができ、考えることで自由になれたのである。

 

 

あとがき:

 

今回、人間の自由意志を考える上で、これ以外にも別のアプローチを方法を考えてみました。

 

例えば、もしあなたがアメリカに行く時、友達に「どこかいいオススメのいい場所ある?」と尋ねたとします。そこで、友達に「ここがいいよ」と言われたら「じゃあそこにするね」とは言わずに、敢えて「じゃあそこにはいかないね」と、わざと相手の言われたことに反する行動をとってみる方法です。こうすれば、機械的に返事をするよりも、自分は相手が言われたことにそのままイエスという人間ではないという一つの独立した意思表示になります。

 

また、自分「人に自由意志など存在していないんじゃないか」と自問自答してみるだけでも、私は無意識の行動を自覚した上で行動している、だから私に自由意志は存在してる、といったアプローチ方法があることにも気づき、いろいろと想像が膨らみました。

 

ただ、前者の行為は相手からしてみれば迷惑以外の何物でもなく、しかも自分の思考プロセスの中にunless文(もしこうでなければ)が組み込まれていたら、これも結局は機械的に組み込まれた行動といって良いでしょう。

そして後者も、結局自分のしている行動に何も変化がなければ、ただ自由意思の解釈を曲解しただけと言われても仕方がないことでしょう。

 

そういう補完しきれない部分があるという意味では、今回本ブログで紹介した論法にも当てはまり、自身の意思決定を本能に委ねるのは先天性に頼る為、自由意志と呼べないのではないか、という疑問が湧いた方もいらっしゃるかと思います。その意味では、この説はまだまだ不完全な要素を多分に含んでおり、後者の反論も当てはまるわけなので、こちらの説も完璧であるとは言えません。

 

ただ、個人的にこの考え方は大きな発見だったので、ライフアカデミック的に取り上げてみました。

 

悪しからず。

本ブログについて

初めまして。Visonです。

 

本日から、日常生活の中で感じた疑問を掘り下げて考えたことをこちらのブログに綴っ

 

ていこうと思います。本ブログの方では、過去にこんな記事をまとめて書いているの

 

で、もし興味があればご覧ください。

 

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記事は大体月に2~3つ投稿予定です。